
【北京 日常 ブログ】
日中両国で今年行われた相互印象を尋ねる世論調査によると、日中ともに相手側に 「
良くない印象を持つ」 との回答が
9割超に上り、2005年の調査以来
最悪となったそうです。
調査は、日本の民間団体 「言論NPO」 と中国の英字紙チャイナ・デーリーが6〜7月に実施。 言論NPOが8月5日、東京都内で発表し、日本のメディア各社がこれを報じました。
実は昨日 (5日) 午後、東京の新宿駅西口前の雑踏の中を歩いていたら、テレビカメラを担いだ撮影クルーと、カラフルなボードを手にしたアナウンサーらしき女性の姿を目にしました。
なんだろうと思い、そろりそろりとカメラの後方に回ってボードを見ると、「
中国への印象は? ○良くない ○どちらかといえば良くない ○良い ○どちらかといえば良い」 と書かれた大文字が認められました。
きっと、どこかのテレビ局の取材だったのでしょう。 ニュース番組に用いられる録画のためで、彼らは恐らくこのボードを見せながら街頭インタビューをして、一般の人たちからリアルな回答を得ようとしていたに違いありません。
調査の 「
過去最悪」 という結果は、尖閣諸島問題をめぐる昨年9月以来の両国関係悪化が影響したと見られています。
その分析に異議を唱えるものではありませんが、「右へならえ」 式に社会の空気に同調するムードが強い日本人。 「家族や友人に中国人がいる」 「中国で仕事や勉強をしている」 などといった少数の “知中派” 日本人でなければ、中国や中国人に対して良い印象を持つ人は少なそうです。
ボードの街頭インタビューでも
最悪の結果となりそうなことは、容易に想像できました。 つい1カ月ほど前まで中国北京市の住民だった私はやり切れない思いになって、その場をそそくさと去ったのでした。
印象の悪化に関して、思い出すことがあります。
北京市南東部の古い住宅街に住んでいた私は、近所にあるコピー屋さんをよく利用していました。 コピー屋といってもコピーやファックスといったデスクワークはもちろん、写真プリントや証明写真、トロフィーやオリジナル旗の製作まで、一通りの用なら足すことのできる便利な事務屋さんでした。
ここに今年初めからだったか? 20歳そこそこの青年がアルバイトで入りました。 背 (せい) がすらりと高く、耳にしゃれたピアスを着けたなかなかのイケメン君です。 北京っ子だというので、近所に住む若者でしょうか。
私はごく普通に接していたつもりでしたが、ある時、彼は私が日本人だと知るなり、こんな意地悪な質問を投げかけてきました。
「釣魚島 (尖閣諸島の中国名) は中国のものでしょう?」
敏感な質問に初めは
ドキッとしましたが、その場で舌戦を繰り広げても、味方になる人はいそうもありません。
そこで、これにはユーモアで返すしかない、のれんに腕押し、糠に釘、のらりくらりの対応でいこうと決めて、
「私には私の意見があるけど、答えたくないよ!」 とアッサリかわしたのでした。 これも日本人特有のあいまい戦法といえるでしょうか……。
苦肉の策がウケたのか? 以来青年は私を見るたびに同じ質問を投げかけるようになりました。 その都度、のらりくらりのあいまい路線でやりとりをしていたのですが、しだいに彼はどういうわけか? 日本語に興味を持つようになりました。
「“你好” (ニイハオ) って日本語で何というの?」
「“謝謝” (シェシェ) は?」
「“再見” (ザイジエン) って何ていうの?」……。
私たちの会話は、尖閣諸島だけではなくなりました。
ある時は、新しい大学ノートを見せてくれました。 表紙には 「
日語」 (日本語) とペン書きされており、ページを開くとひらがな、カタカナの 「50音」 がキッチリと記されていました。
「どうしたの、これ!?」
目を見開いた私に彼は 「インターネットで調べたんだよ。 独学で始めたんだ」 といい、スマートフォンに記録した日本語のデジタル音声を聞かせてくれました。
「わたしは ・ あなたが ・ すきです……」
「外国語で最初に覚えるのは、これだよね〜」 と2人して大笑いしたのでした。
「釣魚島は中国のもの!」 と目を吊り上げていた青年が、数カ月後に日本語を習い始めた。 そんな彼の小さな変化が、素直にうれしく思えました。
雨が降れば晴れることもあるし、人間だって時には固定観念を変えることもあるでしょう。
「日本語を教えてほしい」 といっていた彼が、今も変わらず熱心に独学を続けているかどうかはわかりません。
北京を離れる数日前、コピー屋さんに挨拶に行った時には、残念ながら彼は不在でした。 直接お別れを言うことはできなかったけれど、店長やスタッフにこれまでの感謝の気持ちを伝えつつ、「彼に差し上げてください」 と愛用していた中国製のバスケットボールを贈りました。
その青年、王イエン君がバスケットボールを見るたびに、日本語学習を続けてくれたら、日本に対する印象も、こんな小さな出会いから少しずつ変わってくれたら……とひそかに期待しているワタクシです。
※ 写真は、北京市南東部の古い住宅街 (2012年11月)。