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台湾衝撃の傑作長編 『房思の初恋の楽園』――絶望の深淵をのぞき、文学の高みを知る

『房思の初恋の楽園』 【台湾 図書 ブログ】

 深い闇と静寂に包まれたこの秋の夕べ、一気に読み終えた本書を閉じると、なぜだか大きく息を吐いた。

 やり場のないもどかしさ、人間の浅ましさと悲しさ、むき出しになった欲望と愛憎、文学の深奥と神秘性……。

 その嘆息の意味がなんであるか、まとまらない思考はぐるぐると巡り続け、やはりそれはわからないままだ。 けれども一つ言えるのは、やはり私の心は動揺し、確かに震えているということだ。

 本書 房思 (ファン・スーチー) の初恋の楽園 は2017年に台湾で出版されて以来、これまでに25万部を突破したという異例のロングセラー小説の邦訳版だ (泉京鹿訳、白水社)。

 著者の林奕含 (リン・イーハン) は1991年生まれの女性作家。
 デビュー作である本書に 「これは実話をもとにした小説である」 と記し、その衝撃の内容と刊行から2カ月後に著者が命を絶ったことで、台湾社会に大きな波紋を呼んだ……といわれている。

 さらにこの作品は、中国大陸で刊行された簡体字版もベストセラーとなり、韓国でも翻訳刊行されるなど、アジア各地で広く読まれているという。 日本でもついにこの秋、満を持しての邦訳版のお目見えとなった。
 台湾南部の港湾都市、高雄の高級マンションに住む13歳の文学好きな美少女・房思は、下の階に住む憧れの50代の国語教師に作文を見せに行き、強姦される。 やがて彼女はその関係から抜け出せなくなってしまう。
 世界の裏側を見てしまった少女と、彼女をとりまく人々のさまざまな愛の形を、壮絶かつ流麗な筆致で描いた物語である。

 その姓、暴力、権力、格差社会……のリアリティー溢れる描写については、ここではあえて触れないこととし、読者一人ひとりにじっくり読み解いてもらいたいと思う。

著者の林奕含 特筆したいのは、ディテールに至るまで精巧に表現された、その文学性の高さである。

 作家が自らを投影したと思われるこの重く、つらく、悲しい物語は、絶望の深淵をのぞくかのようでいて、実はその溢れるばかりの文学性に引き込まれる。 それがこの作品を単なる事実の “告発本” ではなく、台湾の現代文学を代表する一つたらしめている理由ではないかと思う。

 中でも唸らされるのが、比喩表現の繊細さと美しさだ。

 「まぶたを震わせて、抜き足差し足でそろそろと通りに戻ると、漢方医を信じない人が西洋医学の療法をひと通り試したけれど効果がなくて、鍼と灸を顔中に施すような冷たい風が吹いていた」 (20ページ)

 「一維兄さんが伊紋姉さんを見て笑う。 顔に石を投げ込んだように、顔中にさざ波を立てた笑い」 (27ページ)

 「その日、わたしは先生の肩越しに、天井が波打って海のように鳴いているのを見つめていた。 その瞬間は幼い頃に着ていたドレスに穴をあけられたような感じだった」 (37ページ)

 これらは物語の始まりのごく一例でしかない。 比喩と比喩が折り重なって、時折、夢かうつつかその境界線があいまいになる箇所さえあるが、それこそが文学の醍醐味でもある。 読者は、作家が織り成す、精緻をきわめた物語の中に、自然に身をゆだねていればいい。

 そしてやがて気づくだろう。 作家の豊かな文学性を支えているのが、ありとあらゆる内外文学に知識に教養であるということを。 
 孔子、孟子、李白、杜甫、魯迅、聖書、プラトン、シェイクスピア、ドストエフスキー、アンドレ・ジッド、張芸謀、岩井俊二……。 登場人物が銀座のマンションに高級寿司を出前してもらう描写もあるが、日本の現代社会や文化についても詳しいのである。

 幼少期から成績優秀で、台北医学大学医学部や国立政治大学中国文学部に入学しては精神疾患で休学していたという作家、林奕含の博識さ、繊細さのほどがうかがえるようだ。 あらゆる知性を物語にしのばせて、言葉遊びを楽しむかのような作家はまるで現代によみがえった科挙の主席合格者・状元を彷彿させる。

『房思の初恋の楽園』 その上で、読者としてはやはり考えざるを得ないだろう。

 作家自身が 「書いているときにも多くの苦痛を感じ」 「悪意を抱きながら悪意を書いた」 (「訳者あとがき」) と刊行後のインタビューに答えているが、そうした “苦痛と悪意” が刻み込まれた本書から何を読み取るべきなのか?

 訳者の泉京鹿さんは 「訳者あとがき」 でこう述べる。

 刊行後のプレスリリースの席で、作家が読者に 「読み終わった後で希望を抱いてほしくない」 と口にしたことについて触れ、それに対して 「文学はほんとうに彼女を救えなかったのだろうか。 それでも、彼女の文学が、誰かの救いになると信じたい」 と。

 一方、作家は、刊行後にこうも語っている。
 「わたしはほんとうに房思ではありません。 わたしが房思であるかどうかということは、この本の価値とは関係がないのです」

 「どうしてわたしが房思のことを書き (中略)、いやらしい異常なことまで詳細に書いたのか。…… (中略) わたしは社会構造のことなど話したくはないのです。 みなさんは忘れています。 それは一人一人の人間なのだということです」 (いずれも 「訳者あとがき」 より)

 これはあくまでも私の推測でしかないが、作家はこの 「実話をもとにした小説」 を創作することによって 「文学とは何か?」 「創作の、芸術の欲望とは何か?」 を問い続け、文学というそびえ立つ巨峰に挑み続けていたのではないか……。

 そして、作家が最初にして最後の小説を生み出し、この世を去ってしまったという事実を、どう受け止めるべきなのか?
 あるいは作家は、挑み続けていた文学という巨峰を征服する途中で、真実と虚構、本音と詭弁というブラックホールのような巨大なクレバスに呑み込まれてしまったのではないか……ということだ。

 本当のところは林奕含、その人にしかわからないだろう。
 台湾では今も作家の命日に大規模な読書会が開かれ、本書の評価をさらに高めている (「訳者あとがき」) という。 本書の影響力について、文学性について、表現について、日本でも読者同士、語り合ってみたいものだ。

 何より、私の老朋友であり、早くから第一線で中国語圏文学を精力的に翻訳されている訳者の泉京鹿さんは、このような難解で複雑な文学作品を、優れた日本語の小説として訳してくださった。 苦痛の中にも、きらめきが溢れてこぼれ出る文学の世界を味わわせてくださった。 長く、忍耐のいる取り組みだったと思うが、そのご労苦に心から感謝したい。

 何度も引用させていただいたが、それ自体に文学的味わいのある 「訳者あとがき」 も必読の一作だ。 泉さんの翻訳に対する真摯な姿勢と、いっそう円熟味を増してきた彼女の邦訳の秘訣がうかがい知れるかのようだ。

 本書について、千言万語を費やしても語り尽くせない感があるが……。
 いずれにしても 房思の初恋の楽園 を紐解き、台湾の現代文学の高みをぜひ味わっていただきたいと願う、この秋の夕べである。


■ 『房思の初恋の楽園』
 林奕含著、泉京鹿訳、白水社
 アマゾン


※ 写真は、本書カバーと、カバー写真の著者の林奕含。


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  • 2020.03.31 Tuesday
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