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映画 「嗚呼 満蒙開拓団」 と趙喜晨さんが語る歴史

  趙喜晨さん  「嗚呼 満蒙開拓団」

意見交換会 なぜ、このような悲劇が起きたのか、そして今の時代に生きる私たちは、どうすればいいのだろう――。
 そんなことを、改めて深く考えさせられました。

 2008年に日本で製作・公開され、大きな話題を呼んだドキュメンタリー映画 嗚呼 満蒙開拓団 (羽田澄子演出、自由工房製作) の鑑賞会が23日午後、北京市内のホールで開かれ、日中両国の研究者や学生、会社員、マスコミ関係者ら約60人が会場をいっぱいに埋めました (主催: 「嗚呼 満蒙開拓団」 鑑賞会・実行委員会、協力: 自由工房、北京日本人会)。
 主催者の北京日本人会から横田恵三郎会長が、来賓として中日関係史学会の丁民名誉会長らが出席しました。

 満蒙開拓団とは1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北地方に入植させられた日本移民のこと。
 「王道楽土」 や 「五族協和」 という夢のようなプロパガンダを信じ、広大な土地の開拓と自由を求めて大勢の日本人が中国東北地方に渡りました。 45年の太平洋戦争敗戦までに送り込まれた開拓民は約27万人。 うち約8万数千人が、ソ連の参戦、日本敗戦によって、帰国できずに亡くなっているそうです。
 そして戦後もこの悲劇は、中国残留日本人の訪日調査や帰国者の定着促進、中国残留孤児への国家賠償など、さまざまな課題となって残されています。

 映画は、自身も旧満州の大連に生まれ、旅順で育った羽田監督が、「同じ満州でも最南端の都会に暮らしていた私は、満州の奥地で起きていたことを知らなかった」 とメガホンを取りました。
 中国東北地方、黒龍江省方正 (ほうまさ) 県に建設された日本移民の共同墓地 方正地区日本人公墓 の存在を中心に、満蒙開拓団の関係者のインタビューを丹念にまとめています。 監督自らがナレーターを兼ねていますが、その語り口は淡々としながらも、背景となる歴史は重く、つらく悲しい事実として、観る者の心を打ちます。
 映画は、09年文化庁映画賞・文化記録映画大賞、08年キネマ旬報文化映画ベストテン第1位など数々の賞に輝いています。

 上映に続いて、「方正地区日本人公墓」 の建設に携わったという趙喜晨さんをゲストに、会場との意見交換が行われました。
 趙喜晨さんは1935年生まれ。 黒龍江大学 (ロシア語専攻) 卒業後、中央ラジオ局勤務を経て黒龍江省人民政府外事弁公室に入り、渉外案件を担当。 日本処の課長、処長を歴任されました。
 63年、方正に日本人公墓を建設する話が持ち上がった際、外事弁公室の担当者として、中央政府との連絡、石碑の選定、墓碑銘の揮毫依頼、墓碑の運搬、墓地の決定など、あらゆる場面で陣頭指揮にあたられました。 83年から84年まで、新潟県日中友好協会などの招きで、新潟大学に研修留学。 帰国後は85年まで外事弁公室に在籍、現在は北京に在住されています。

 「方正地区日本人公墓」 は趙喜晨さんら地元の人々の理解と尽力によって、63年に建設されました。
 その地――松花江の沿岸である方正地区には、ソ連軍の進駐や日本の敗戦により、満州の奥地から多くの開拓民が避難しましたが、真冬の酷寒や飢え、疫病により数千人もの人がここで命を落としたそうです。
 その後、広大な大地に打ち捨てられた白骨の山を見つけた残留婦人、松田ちゑさんが、これをなんとかして埋葬したいと思い、その願いが県政府から省政府、中央政府まで届いて、当時国際関係を重視した周恩来首相が、中国政府として共同墓地建設を許可したのでした。
 日本人開拓民の遺骨 (約4500人) が祀られた公墓は、広い中国でもここ方正にあるものだけだそうです。 建設されたのは戦後まだ間もないころで、日中国交正常化 (72年) よりも前のこと。 文化大革命 (66〜76年) の混乱を経て、いまでも現地の人々に管理・維持されている公墓なのです (近くには、ソ連軍の攻撃で集団自決した麻山事件の日本人被害者を祀った公墓もあるそうです)――。

 「映画は、当時の日本人開拓民のつらい歴史を物語ってくれました。 羽田女史 (監督) は、今年84歳になるそうですが、戦争を経験した世代として、若い世代に歴史を伝える義務があるといわれていた。 この映画は貴重な歴史の教科書です。 日中両国は今後、戦争をせずに、平和を維持することが重要だと伝えているような気がします」。 趙喜晨さんはそう、映画の意義を話していました。

 当時の中国政府の外国人墓地に対する方針は、「遺骨の親族が引き取るなら取り出して、引き取ってもらう。 そうでなければ、土深く埋める」 というものでした。
 「どうやってこの遺骨を処理するか。 当時、方正地区には多くの残留日本人がいて、地元の人と家庭を築き、社会に溶け込んでいた。 その人たちのことと中日両国の友好関係を考え、遺骨を深く埋めるよりも、記念碑を建てようと考えたのです」

 「中央政府に申請する際、記念碑になんと文字を刻むか、2つの意見に分かれました。 1つは、『日本侵略軍が来て (結果として) 亡くなった日本人の公墓』、2つめは、『1945年 亡くなった日本人の公墓』。 議論が分かれましたが、結局、両国が受け入れられる後者の内容となり、記念碑は63年8月に完成しました。 『方正地区』 と記したのは私の提案です。 公墓には方正県の日本人だけでない、松花江沿岸で亡くなった日本人の遺骨も含まれるので “地区” としたのです」

 「もちろん、当時は日本人公墓建設に対して、いろいろな意見がありました。 ただ、当時の中国は愛国主義教育と同時に、国際主義教育が進められていた。 (発展途上にある) 中国の建設は、国際社会の力も借りて行わなければならない、とするものです。 中央政府の同意により、その後は、公墓建設の方針が揺らぐことはなかった。 混乱した文革のころは、公墓を壊すという声も聞かれたが、『国家政策である』 とこれに対抗して、公墓を守ってきたのです」

 事実上、日本人が統治した旧満州で育った趙さんは、小さいころ地元の中国人に 「中国人と名乗るな」 といわれ、「満州人であることを自覚してきた」 といいます。
 また白い精米を食べることが経済犯罪となったので、旧正月には白いご飯と、トウモロコシを炊いたものを2種類用意し、日本人が来たらトウモロコシにすり替えるなど、「恐い経験もあった」 といいます。

 それでも、60年代に黒龍江省で半導体ラジオを作ったのは残留日本人技術者であったことなど、「日本人が地元に与えた好影響も、忘れてはなりません」 と趙さん。

 「60年代には方正県で、大規模な残留日本人の訪問調査をしましたが、彼らは苦しいながらも中国社会に溶け込んで懸命に暮らしていた。 『中国の人々は、貧しい中でも食べ物を分け与えてくれた。 私たちの命が今日まであるのは、中国の人々のお陰だ』 と感謝していました。 日本人は、非常に忍耐力があり、強い民族だと思う。 つらい中でも、なんとかやっていこうという、強い気力や意識がありました。 日本人は、外事弁公室に助けを求めに来たことはなかったが、(残留日本人に食料配給を多くするなど) 優遇措置を取ったとき、感謝の気持ちを伝えに来た人が多かったのです……」

 戦後生まれの世代にとって、こうした悲劇は遠い昔のできごとなのかもしれません。 しかし同時にそれは、たかだか60年前、70年前の生々しい事実でもあります。
 「嗚呼 満蒙開拓団」 がメッセージとして伝えていることは何か? 映画を通して、改めて考えてみたい。 しみじみとそんな思いを残しました。

趙喜晨さんを囲んで ※ 写真は左上から、
  [鮖砲両攜声圈趙喜晨さん。

 ◆ ̄撚 「嗚呼 満蒙開拓団」。 これは、方正地区日本人公墓の周辺風景。

  趙喜晨さんとの意見交換会では、活発な質疑応答が行われた。

 ぁ ̄撚茣嫋涓颪慮紂趙喜晨さんを囲んで。 前列左から、映画製作時に通訳を担当した佐渡京子さん (在中国日本大使館)、趙喜晨さん、西本志乃さん (在中国日本大使館)。 後列左から2番目は、北京日本人会・文化委員長の鈴木稔さん。


※ ご参照 日本文教出版ホームページ 「学び!とシネマ」
・ 「『嗚呼 満蒙開拓団 (2008年・日本)』 なぜこの悲劇は起きたのか」  (09年6月号)

※ 関連エントリー
・ 旧満州の銅銭  (「中国メディアウォッチ」 06年5月8日付)



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  • 2020.03.31 Tuesday
  • -
  • 15:30
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コメント
ひさしぶりのイランカラプテです。

ひさしぶりに、
「祐子のホームページ」を思い出しました。

〜百万組の引き揚げ家族がいれば、百万通りの物語があるはずです。百万通りの物語が孫や曾孫の代まで語り継がれることを願って書きました。〜

「ひまわりの歌」を覚えていますか。
 http://www2.accsnet.ne.jp/~laura_88/
美幌音楽人さま: ご無沙汰しておりました。
コメントありがとうございます。

映画の証言に出てくるのですが、開拓民の地位は非常に低いものだったらしく、引き揚げのとき、
 〃慨愀玄圓箸修硫搬
◆)鉄関係者とその家族
 満州政府関係者とその家族
ぁヽ拓民

という暗黙の引き揚げ順序といいますか、重要度の格差があったのだそうです。結果として、多くの開拓民が飢えや寒さで亡くなることになりました。

残留日本人を助け、育て、「畑にごろごろしていた」という人骨を手あつく葬ってくれた中国の人々には、感謝してもしきれません。

そして、残留日本人や帰国者、関係者のお幸せを祈るととともに、不幸にして亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

(-人-)。(-人-)。(-人-)。。。
となり町に居住のハイラル引揚者(当時は小学四年の男子)から、じっくりと話を聞きました。写真や資料をアルバムに丁寧に保存していました。もう、20年前のことです。
今でも、そのときの話しや写真を思い出すと胸の奥がジーンと痛みます。
美幌音楽人さま: 度々ありがとうございます。
戦後65年。羽田監督の言葉の通り、戦争の体験者は語る義務があり、戦後世代は真摯に耳を傾ける必要があると思います。

じつは私は、長野県の生まれです。
長野県は、全国でもっとも多くの開拓民を送ったところ。映画の中にも、多くの開拓民を送り出した長野県泰阜村という山村が出てきます。

小さいころはわかりませんでしたが、私の遠戚にも引揚者だという伯父さん、叔母さんがおりました。詳しい話を聞いたことはありませんが……。

私がいま大陸にいることも含めて、引揚者の話は、どこか人事とは思えないという、淡い関心があるのです。。。
父が戦争に行くときに兄が生まれ、父が戦争から帰って来てから私が生れました。兄と私は七つ違いです。

父は戦争のことを戦友同士とは語っていたようですが家族にはあまり語らなかったです。牡丹江などやソ連の国境付近の山岳地帯の写真と資料はアルバムに丁寧に保存していました。

家業が味噌醤油こうじ製造の父が、中国の小さな村で味噌を作ったら、村人たちから「先生!先生」と呼ばれたそうです、そして国境に移動する日に村人たちはこっそりとリンゴを父に渡したのです。ちいさな痛んだリンゴだったけれど、それで命が助かったのです。多くの戦友が死にました。

懐かしそうに語る父の顔を思い出しました。50年も前のことです。
美幌人さま: お父様のお話、ご紹介くださってありがとうございます!
(ノ_・。) じーんとさせられます。

やはり筆舌に尽くしがたいご苦労があったのでしょうね。語りたがらないというのは、そういうことなのでしょうね。

それでも、お味噌とリンゴの交流。。。よかったですね。映画鑑賞会の話でも、日本人の技術者や医者など、知識や技術を持った人々が、戦後も中国東北地方の発展に貢献したという話がありました。

美幌人(加藤)さんのお父様の技術も、今もその村で受け継がれているかもしれませんね!
むかし父は、戦争の武器をもって、中国へ行った。

いま私は、平和の道具をもって、中国に行く。

 http://masaokato.jp/history/ad1987
加藤雅夫さま: ありがとうございます。

> 戦争の武器をもって、中国へ行った。
戦争にかり出された人の多くは、本当は、戦争なんかしたくなかったのだと思います。

加藤さんの多岐にわたるご活動、本当にすばらしいですね! 40代でさまざまな国際交流をされている。私はまだまだですが、なんとか頑張らなければっ!!! ^^;
今日まで世界レベルで結局はコミュンテメンに翻弄されて来てますね。

万単位のシナ軍が数百名の日本軍を見て、ビールの泡の如く消えてしまった情景を、外国人特派員がその様に言い表したりしてますが、現地の南京市民は日本軍の方へ逃げ込んで来てた事も伝えられてますので、日本軍は市民と良好な関係に有った様子を、うかがい知ることが出来ますね。
草莽愛知実行委員会さま: ありがとうございます。

今さらながらですが、歴史にはさまざまな側面があるのだと思わされます。

だからこそ、記録して残し、伝えることの重要性が増すのでしょうね。。。
長野県日中友好協会のホームページ「虹の架け橋」を訪問して参りました。内容充実、見やすくて素晴らしいサイトですね。小林さゆりさん登場の HOT SPOT(注目論点&友好論壇)も拝見しました。

日中友好協会と小林さゆり様の、ますますのご発展ご活躍を期待します。

これから、北京メディアウオッチ(2月3日付)の記事に寄り道します。

長野県日中HPに転載されました!
「満蒙開拓団」 記事
 http://pekin-media.jugem.jp/?eid=793
北の国からギター様: いつも応援ありがとうございます!

長野県日中友好協会のホームページ「虹の架け橋」もご覧になっていただいたそうで、うれしい限りです。

戦争中に本当につらい体験をしたからこそ、同じ過ちは二度と繰り返すまい……そう願うのは当たり前のことですよね?

戦争体験者でない私も、平和な社会、平和な世界を願っています。
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長野県日中HPに転載されました! 「満蒙開拓団」 記事
 ドキュメンタリー映画の 傑作 「嗚呼 満蒙開拓団」 (羽田澄子演出、2008年、自由工房製作) の鑑賞会がこのほど北京で開かれ、映画の上映に続いて、中国黒龍江省方正 (ほうまさ) 県にある日本移民の共同墓地 「方正地区日本人公墓」 の建設に携わったという
  • 北京メディアウオッチ 〔ブログ〕
  • 2010/02/03 11:22 PM
一阿のことば 32 「〔しーたろう〕のクリスマスメッセージへの返信6」
昭和50年代でしたか、尾崎巌という慶応の教授がいました。同期でした。
  • ガラス瓶に手紙を入れて
  • 2010/02/04 12:50 AM
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